2011
11.19

思い出の扉:「我が家の成人式」

Category: 思い出日記
成人式にはまだ早いですが、我が家の成人式に関する記事をHPやブログでアップしていたものを再アップします。一応、今回の記事で「思い出の扉」の再アップは終了します。

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*長女の成人式(2005.1.14UP)
『昭和59年12月2日に、私達夫婦に女の子が生まれた。私が27歳、うちの奥さんが24歳の時である。(結婚した時はまだ若かったので数年間は二人で旅行などをして楽しんだので少し間がある)
あれからもう20年が過ぎてしまった…
時の流れは速く、決して止まってはくれない。今も刻一刻と時は過ぎている。
初めての赤ちゃんだったので、それはそれは大切に育てた。そして写真やビデオも撮りまくった。小学校、中学校、高校、そして大学途中まで大きな病気も怪我もせず、今日まで順調に育ってきた長女(長男と次女は大きな怪我も病気もしたが、何故か長女だけは何もない)。気がつけば、おてんばだった長女も二十歳を過ぎ、先日、成人式を迎えた。

最近の成人式では、ほとんどの女性が着物を着るみたいなので、我が家も昨年の夏過ぎに着物を借りた。
本当は、「着物を購入して、次女も成人式の時にそれを着る」という案も出されたが、いつもお姉ちゃんのお古ばかりの次女から拒否権が出されて、購入の案は却下されたf(^_^)

成人式当日は、朝から着付けやお化粧があるので、私が車で美容室まで送っていった。それから1時間くらいして長女を迎えに行った。そこには別人が待っていた… 見違えるほど美人?になっていた。「ホント親バカだなぁ~」って自分でつくづく思ってしまう。でもそれでいいと思う(o^_^o)

成人式の会場は、市内の中で最も豪華なホテル(結婚式場やレストランが合体)で開催された。連れ添いということで、私は初めてこのホテルの中に入ることが出来た。一度は入りたかったホテルである。
ホテルに着くとすぐに車を駐車場に止め、庭園やホテル内で長女の写真を一杯撮った。もちろん、私とのツーショットやうちの奥さんとのツーショットなども。長女の友達も来ており、一緒の写真も撮ってあげた。
会場には成人式を向かえる若者に混じって、私のようなオヤジが一杯いた。みんなニコニコしていた。この会場の成人式は、騒ぎもなく無事終了したらしい。良かった良かった。
20111105-1_20111119223227.jpg 長女と2ショット

終了後、一旦、長女を自宅に連れて帰り、今度は、家族全員でうちの奥さんの実家に車で出かけた。実は、車で1時間もしないところに、うちの奥さんのお兄さんとお母さんが住んでいるのである。
結果的には、お兄さんは出かけていて会えなかったが、お母さんには長女の晴れ姿を見せることができ、本当に良かった。お母さんも喜んでいた。私の田舎のお母ちゃんには写真を送ろうと思っている。

そういえば、私は自分の成人式には出ていない。というか、会社のスキー旅行に出かけていたので参加できなかったのである。これも人それぞれっていうことで…

あと3年で長男が、そしてあと5年で次女が成人式を迎える。二人共その頃には変わっているんだろうなぁ。まあ、みんな元気で大きく育ってくれればいいと思っている。結局のところ、人生において、成人式は一つの通過点に過ぎないし、本当の人生はこれから始まるのである。』

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*長男の成人式(2008.01.14UP)
『ちょっと前に長女の成人式が終わったと思っていたら、何と今日が長男の成人式でした(といっても、もう3年経ってますが…)。
長女の時は振袖を着ての参加でしたので、朝から着物の着付けや美容院でのお化粧?などがあり慌しく1日が過ぎたのですが、今日の長男の場合は袴ではなくスーツでの参加でしたのでほとんど何もすることもなく式場までの車の送迎だけで終わりました。
いつも言う言葉なんですが、「ほんとに月日の流れるのは(年を取るのは)早いなぁ~」って感じです。あとは次女が2年後に成人式を終えれば、親としてはホッと一息つけるのかなぁ(^_-)-☆ 』

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*次女の成人式(2010.01.11UP)
『私には子供が3人いるのですが、一番末っ子の次女がこの日成人式を迎えました(^o^)
長女の時もそうでしたが、一生に一度と言うことで着物をレンタルして着せてあげました(レンタルなのにメチャ高いのには困りものです)。
同じ地域の成人式には同じ柄の着物はレンタルしないみたいで、早めに予約をしないと気に入った着物は借りれません。なので次女も1年?近く前に気に入ったものを予約しておいたので結果的には良かったです。

当日の朝7時過ぎには着付け場所まで車で送っていきました。そして約2時間後に準備ができたのでうちの奥さんとカメラを持って成人式会場まで移動。そして館内や庭で娘の写真や動画を撮りまくりました。親バカなので自分の娘が一番可愛く見えました(⌒‐⌒) 
20111105-2_20111119223226.jpg 次女と2ショット

式典が終わってから、うちの奥さんの母親が入っている老人ホームまで車で移動。次女の着物姿を見てお母さんも喜んでいました。ちょっとは親孝行(奥さん孝行)できたかなぁ(^^)

これで子供3人とも成人式を終えたので、親としてホッとしています。あとはみんな幸せになってほしいと願うだけです(^_^) 』


《追伸》
今それぞれの記事を読んで見ると、案の定というか娘達の記事が長かったですね。長男の時には写真も無かったし(^^;
次ぎの成人式は孫達かなぁ。そうなると早くても17年後か~ 元気でいないと!
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2011
11.05

思い出の扉:「大雪(2003.12.24UP)」

Category: 思い出日記
これまで閉じたHPからブログへの移設の為にアップして来た
「思い出の扉」も残りあと僅かになってきました。
今回はちょっと時期的には早いのですが、大雪にまつわる思い出の記事です。

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*「大雪(2003.12.24UP)」
『今年の冬は例年に比べて暖かいそうである。確かに今日のクリスマスイブも暖かかった。
私がこれまで40数年生きてきて大雪の思い出はそんなに無い。でも覚えているいくつかの思い出を今回書いてみようかと思う。

1.小学校時代
 私の故郷は四国の香川県である。香川県は瀬戸内海気候のため冬でも暖かい。なので雪が積もることはほとんどない。しかし、私が小さい頃は3年に1度くらいの周期で大雪が降ったのである。覚えている1回目が小学校の4年生の時である。その日は朝から雨が降っていた。ところが急に寒くなって雨がミゾレに変わりそして粉雪に変わった。お昼頃になるとボタン雪に変わっていた。話によると、雨からすぐにボタン雪になると積もらないが、粉雪からボタン雪になると積もるそうである。今回はそんな典型的な大雪である。授業を受けていると先生が部屋まで来て、「今日はこれで学校終わりです」と言う。外はもう一面雪景色。なんと30cm以上積もっていた。なので帰り道は苦労した。道路横の溝や川が埋もれていて危険なのである。雪が良く降る地域では30cm降ってもなんとも無いと思うが、香川県では列車が止まるほどの大雪なのである。もちろん、次の日は休み(o^_^o) 家にある有線放送で学校が休みになる旨を放送していた。その日は家の前の広場に雪をかき集めて、かまくらや滑り台を作って遊んだ。また近くの池の土手へ行って、ビニール袋をお尻に敷いて良く滑ったものだ。何も考えずただひたすらに遊んでいたあの頃は良かったなぁ~ってつくづく思う。

2.中学時代
 確か中学1年の時にも20cmくらいの大雪が降ったと思う。この時は、朝早くから降っていて、ある程度積もってはいたのだが、まじめな?私は自転車で大雪の中を中学校へ向かったのである。もちろんこの日は学校が休みになっていた。運良く、同じように学校へ行っていた友達が帰ってきている時に偶然会うことができ、学校へ着く前に帰ってこれた。大雪の日の自転車は危険なので無理は禁物! 
あそうそう、この大雪で一つ痛い思い出がある。大雪から数日後のある日、まだ校庭には雪が残っていた。その日は大掃除があったのだが、なんと友達と雪合戦をして遊んでいてあまり真剣に掃除をしなかった。それを、校舎から担任の先生が見ていたのである。部屋に戻ってきた私たちのグループ全員がみんなの前に出され、説教のあと、「今から平手打ちをするから、足を開いて歯を食いしばれ!」と言った。私の学校生活で先生にたたかれたのはこれが最初で最後である。今なら問題になるかもしれないが、この熱血先生は生徒には親しまれており、私もこの先生が一番良かったと思う。若かりし日の思い出である。

3.高校時代
 高校の時も一度大雪があった。その時も、お昼過ぎに「遠くの人は早めに帰ってください。」という放送があったので、頑張って1時間かかけて自転車で帰ってきた。途中で、乗っていると危険な場所もあったのでそんなところは押して歩いた。もちろん、列車は止まっていたf(^_^)

4.数年前
 東京ではたまに大雪が多く降る年がある。10年位前には毎週のように大雪が積もり、会社の木が一杯折れた記憶がある。
そして、息子が小学校6年の時にも大雪が降った。朝から家の前のブロック塀には30cm以上積もっているように見えた。そこで、車がチョット心配になって、車に積もった雪をどけに駐車場まで行くことにした。この頃の駐車場は自宅から500m以上も離れていたので苦労した。息子も行きたいというので一緒に行った。着くと案の定、車の上にも30cmくらい積もっていた。苦労してどけた。息子は寒そうにしていた。それはなぜか? 小学校時代の息子はどんな時にも、「短パン、半袖シャツ」で通していたのである。小学校では案外、有名人になっていた。この日ももちろん短パン! 最近あの頃の事を聞いたら、やっぱり寒かったそうだ(o^_^o) そんな息子も中学からは普通の服装に変わってしまった‥

*今年のクリスマスイブは、東京では雪は降らなかった。そういえば、数年前のクリスマスイブの夜に東京で雪が舞った。確かその時は、うちの奥さんとコンサート帰りだったような(o^_^o) 』

《追伸》
子供の頃は大雪が降ると大喜びで外で遊んでいましたが、大人になった
今では通勤が大変になるのであまり喜ばなくなってしまいました。
それに車のタイヤにチェーンを巻くのが面倒ですし‥
でもやっぱり空から雪が降ってくるのを見たり、しんしんと降り積もる雪を
見ながら何となく心が躍る私がいるのは事実です。
はてさて今年の冬は大雪が降るのでしょうか(^^)
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2011
10.26

思い出の扉:「入院(2004.10.5)」

Category: 思い出日記
生きていると色んなことがあります。怪我や病気も‥
我が家でも家族が何度か入院しています。
そこで、入院の思い出を書いた記事をアップします。

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*「入院(2004.10.5)」
『平成16年の8/26の夕方、うちの奥さんから電話があった。実は若い頃から調子が悪かった右耳の手術を9月3日(金)にすることになっており、その事前の精密検査の結果が出たので本日病院に聞きに行っていたのである。何となく携帯電話から聞こえてくる声にいつもの元気が無く、聞いてみたところ「思っていたよりも症状が重く、耳の後ろを切開して手術をすることになった」らしい。それに今回の精密検査で鼓膜と骨が癒着していることもわかり、その部分を削除し他人の骨を移植する必要があり、これにともなって「手術をして、もしものことがあっても病院には責任はありませんよ」って内容の承諾書を書かなくてはならなくなった。

 そういえば数年前に息子も子供の頃からの中耳炎が悪化してしまい手術により1週間くらい入院したことがある。ちょっと親子の絆?を感じる。今回の手術の担当医は息子の時と同じベテランの先生なのでホッとした。実は、今回の耳の検査を初めてした時は若い先生で「耳はそれほど悪くありませんね。頭が痛いのは偏頭痛でしょう!」と言って頭痛薬をくれただけだったらしい。うちの奥さんは、「そんなことはない」と思って、すぐに息子の時の先生に診てもらったら今回の症状が見つかりすぐに手術となった経緯がある。もし、今回このまま何も処置をしていなければ更に骨が解けて脳に影響を及ぼしていたかもしれない。重症の時には腕のいい先生に診てもらうことの大切さを知った。

話を元に戻そう!

 入院が9/2(木)だったので会社を休んで病院まで送って行った。彼女は気丈に振舞っていたが、不安だったに違いない。「脳に近いと言うこともあり、手術により難聴、味覚障害、半身不随、骨の移植による弊害等が起こる可能性がある」と先生に言われていたからである。

 そして手術当日。もちろん私は会社を休んで朝早くから病院にかけつけた。手術は朝の9時に開始。移動用のベッドの横について手術室の前まで見送って行ったが何ともいえない気分だった。それから私は病院の控え室で手術が終わるのを待つことに。先生からは「うまくいくとお昼前には終わります。」と言われていたが、それでも3時間はかかると言うことは、思ったよりも難しい手術であることを実感した。手術が成功するように祈りながら過ぎていく時間の中に身を置いていた。そして予定の12時が来ても手術室から戻ってくる気配は無い。病室で待っている方が確実だと思い、待合室から病室に移動。そして12時30分を過ぎた頃にベッドに横たわったままビクともしない状態でうちの奥さんが戻ってきた。朝、手術室に入る前に看護士さんが「麻酔は完全に覚まして戻ってくる」と言っていたので心配になった。その後、検査の後、呼ばれて病室に入ると、細目を開けたうちの奥さんがいた。まだ麻酔が完全に覚めていないので反応が鈍い。右耳には大きなガーゼ?が包帯で巻かれており、痛々しい。先生によると手術は成功したらしい。「体質の為か鼓膜が薄く、どうしても外圧のために鼓膜が内側に押される傾向にある」とのことで、鼓膜を補強してトータル厚を厚くしてくれたらしい。後はこのまま順調に回復して家族の前に元気な姿を見せてくれることを願うだけだった。

 そして何とか予定通りの2週間で退院することができたが、その間、子供達は不自由な生活を強いられた。特に朝食と夕食が大変だった。私がいる時はスーパーでお寿司などのできたものを買ってくるので何とかなるのだが、平日は子供達だけで火を使うのは危険なので、どうしても電子レンジで温めて食べれるものになってしまう。例えば、ピザ、たこ焼き、グラタン、ピラフ、ハンバーグなどの冷凍食品、食パンやコーンフレークなどである。子供達は文句も言わず、乗り切っていった。今回のうちの奥さんの入院で一番頑張ったのは次女だろう。次女はみんなが嫌がる洗濯をほとんど一人でやっていた。病院から持って帰ったうちの奥さんの洋服や家族の洋服なども1日2~3回洗濯をして庭に干して乾くと取り込んでいた。いざと言う時に動ける次女に感心した。長女と長男はそれぞれ別の担当を一応こなしてはいたが‥

 うちの奥さんが退院してからもうすぐ3週間がこようとしている。手術前に比べて気分が悪くなることは少なくなり、頭痛も減ったらしい。ただ、まだ右耳の鼓膜は治療中(2週間に1回通院)だし、聴力検査なども実施していないので何ともいえないが着実に良くなっていることは間違いないと確信している。

 そうそう、入院と言えば次女の入院回数には適わない。小さい時は小児喘息で低気圧が近ずくと必ず発作を起こして病院へ直行。その後、吸入や点滴をしても治まらないときはそのまま入院。小学生になるまでは毎年数回入院していた。しかし、自宅で吸入器を購入してからは今の中学3年生になるまで入院はしていない。

*私と長女は未だに入院の経験がない。できればこのまま入院をしないで済ませたいものだ(o^_^o)』

《追伸》
この記事を書いてから7年が経ちましたが、この間には入院した家族はいません。良かった、良かった(^^)

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2011
10.25

思い出の扉:「救急車(2004.9.27UP)」

Category: 思い出日記
あまり乗りたく無い車、救急車!
この救急車にまつわる記事をアップします。

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*「救急車(2004.9.27UP)」
『なぜこんなタイトルにしたかというと、我が家はこの救急車に大変お世話になっているからである。
思い起こせば家族で最初に救急車に乗ったのは、妻と私だった。結婚して1年が過ぎた頃、妻がインフルエンザにかかってしまったのだ。妻はもともと扁桃腺が腫れ易いタイプだったのでこの時は高熱が何日も続いた。さすがに私も心配になって、近くの病院に往診してもらおうと電話した(妻はもう体力がなくなっており、車で病院に行く力はなかった)。すると病院の先生は「うちでは往診はしていません。もし緊急を要するのでしたら、救急車を呼んだ方が良いですよ。すぐに診察してくれますから」といって、救急車を推薦した。私はもともと救急車を呼ぶつもりはなかったが、先生が言うように今は呼んだ方がベストかもと思い、「119番」通報した。色々状況を聞かれたが、すぐに救急車はやってきた。「妻は動けない」と言ったら、救急隊員の人が2階まで上がって妻を背負って降りてきた。それから近くの総合病院まで私も一緒に救急車に乗った。案外、救急車は乗り心地悪かった。程なくして病院について、救急入口から担架で運びこまれた。もちろん待つこともなく。その日は点滴をして、即入院。その後、約1週間入院した。この日の出来事を近所の人が見ており、その後「あそこの奥さん、流産したみたいだよ」っていう噂が広まった。まだ子供できてなかったのに‥
その後、子供が3人生まれてからは子供が救急車に乗ることが多くなった。
例えば
(1)妻が自転車に子供3人を乗せていて、交差点で車に追突され、病院へ直行。たいした怪我も泣く診察だけですんだ。

(2)長男が3歳の頃、手に持っていたガラスのコップをテーブルで割ってしまい、その破片が右目に入って出血。幸運にも瞳は外れており大きな怪我とはならなかった。

(3)自宅で遊んでいた長男がこけたときに、偶然何かの角で右目のすぐ上5mmのところを切り出血。もう少し下だったら右目は失明したかもしれない。

(4)長男が幼稚園に入った頃、道路を歩いていて自転車と衝突。帰宅して気分が悪くなったので病院へ。最初レントゲンで見た時に「頭の中に何か塊が見える」というとんでもないお言葉が。すぐにCT検査をする。しかし、何も問題は無かった。

(5)長男が小学校の頃、母親の自転車の後ろに乗っていて、何故か後ろのタイヤとタイヤを支えている棒?との間に左足を挟んでしまい大出血! 今も痕が残っている。

(6)公園で遊んでいた次女が、友達の漕いでいたブランコの下に入ってしまい、オデコをブランコをとめている金具で強打。今でもオデコのこの部分が少し凹んでいる。

その他、救急車には乗らなかったが大きな怪我はしている(例えば次女が昨年の夏、滑り台から転がってくるボールを蹴ろうとして間違って滑り台の下のコンクリートを蹴ってしまい、右足の親指骨折。全治1ヶ月)。思い出すと、長女はほとんど怪我や病気をしていないが、長男は怪我も病気も多い。どうしても男の子は活発だから怪我も多いのかな。しかし最近ではあまり大きな怪我もせず、みんな元気に生活している。』

《追伸》
7年前にこの記事をアップしてから今日までに、救急車には乗っていない怪我を参考に追加すると、
・2006年5月頃、長男がバイクに乗っていて車に衝突。幸いたいした怪我も無く通院で完治!
・2010年4月22日に次女が自転車でこけて右足親指付近を強打してヒビが入る!
できれば誰ももう救急車に乗る機会が無いことを祈るだけです(^^)


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2011
10.24

思い出の扉:「引越し(2009.8.13UP)」

Category: 思い出日記
今は単身赴任の為に京都に住んでます。
早いものでもう京都に来てから2年が経ちました。
今回は私の引越しのことについての記事を載せたいと思います。

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*「引越し(2009.8.13UP)」
『私は公務員ではなく普通の会社員なんですけど、何故だか引越しが多い。
ここで引越しのことを少し思い出してみました。

     転居元            転居先       目的(転居先での居住年数)
1.善通寺市の実家(香川)⇒八王子市の独身寮(東京):就職のため上京(2.5年)

2.八王子市の独身寮(東京)⇒戸塚区の専門学校の寮(神奈川):会社の専門学校に入校(1.5年)

3.戸塚区の専門学校の寮(神奈川)⇒八王子市の独身寮(東京):専門学校を卒業して元の独身寮に戻る(1年)

 《以下は家族での引越し》

4.八王子市の独身寮⇒八王子市の民間アパート(東京):結婚して2DKのアパートに住む(0.5年)

5.八王子市のアパート(東京)⇒相模原市の一戸建て(神奈川):卓球部の部長宅を借りて住む(3年)

6.相模原市の一戸建て(神奈川)⇒八王子市の社宅(東京):会社の社宅へ移る(2年)

7.八王子市の社宅(東京)⇒堺市の社宅(大阪):会社から大阪の大学へ国内留学(1年)

8.堺市の社宅(大阪)⇒八王子市の社宅(東京):会社の社宅へ戻って来る(3年)

9.八王子市の社宅⇒昭島市のマンション(東京):子供が大きくなったのでマンションを購入(4年)

 《以下は私だけ引越し》

10.昭島市のマンション(東京)⇒茅ヶ崎市のアパート(神奈川):製品化のために工場へ長期派遣(1.5年)

11.茅ヶ崎市のアパート(神奈川)⇒昭島市のマンション(東京):自宅に戻って来る(2年)

12.昭島市のマンション(東京)⇒水海道市の寮(茨城):製品化のために長期出張(0.5年)

13.水海道市の寮(茨城)⇒昭島市のマンション(東京):自宅に戻って来る(4年)

14.昭島市のマンション(東京)⇒水海道市の寮(茨城):転属のため単身赴任(1.5年)

15.水海道市の寮(茨城)⇒守谷市の独身寮(茨城)へ移動(5.5年)

16.守谷市の独身寮(茨城)⇒2009.8.17に京都工場の敷地内にある独身寮(京都府)へ(5.5年)

17.独身寮(京都)⇒2015.3に早期退職して近くのマンションに引っ越し(京都)(2年)

18.京都のマンション(京都)⇒2016.12に昭島市のマンション(東京)に戻る

 このうち、結婚してからの家族での引越しは6回もあり、今では家具は傷だらけになっています。
一番短い居住年数は0.5年。長くても5.5年。これからの単身赴任は定年まで続く?
いつになったら同じ場所でゆっくり家族と過ごせるのだろうか(でも子供たちは大きくなって
親元を離れていくだろうから、最後はやっぱり妻との二人生活が一番長くなるのでしょうか‥)。』

《追伸》
これまでに長くても5.5年過ぎると引越しをしてます(私のみ)。
今の京都での単身赴任生活がもし定年まで続くとするとこの寮で8年間は住むことになります。果たして、最長記録を更新することになるのでしょうか‥

【追加】  2016.5.29
2015.3~独身寮から17回目の引っ越しをしました。2月末をもって会社を早期退職し、近くのマンションに今住んでます。
もう少し京都の地で人生をエンジョイします(^^)

[再追加] 2017.10.1(久しぶりにブログを見ていたら最新版に修正したくて)
2016.12中旬に約8年間の京都での単身生活にピリオドを打ち東京の自宅に戻ってきました(妻との時間を作るため)。
先日、還暦を迎えました。もう当分この地を離れることもないと思います。次に引っ越すときはどんな時???
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2011
10.23

思い出の扉:「フォークソング(2003.4.27UP)」

Category: 思い出日記
私の青春時代はフォークソングと共に生きた時代でした。
思い出の曲も多く、今でも懐かしく車の中で聞いています。
フォークソングの後はニューミュージックという呼び名になって
音楽における一つの時代が終わった気がしたものでした。

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*「フォークソング(2003.4.27UP)」
『なんとなく懐かしい響きの「フォークソング」。私の青春時代に欠かすことが出来ないものの一つである。
私が初めて「フォークソング」と言う言葉に接し、かつこのジャンルの音楽を知ることになったのは中学2年生の時。1970年代になって少し経った頃である。
この頃こんな歌が流行っていた。「僕の髪が肩まで伸びて君と同じになったら~」。そう吉田拓郎の「結婚しようよ」である。この歌が気に入り、「フォークソング」にのめり込んでいったのである。もちろん、拓郎のレコードは買いまくった。そしてギターで曲を引いたりしていた(うまくないが‥)。
井上揚水や小椋桂も好きだった。かぐや姫、グレープ、アリス、風、イルカ、ユーミン、ふきのとう‥ そして何よりも私にとって重要な意味を持つフォークグループがあった。
それは「NSP」(ニュー・サディスティック・ピンク、またの名を、納豆・ソラマメ・ピーナッツ)。メジャーな歌としては「夕暮れ時は寂しそう」がある(でも知らない人の方が多いだろうな)。このグループは私よりもうちの奥さんが好きだったのである。デートの時は小さなラジカセを持って行き、NSPの曲を聴きながら人生を語ったものだ(笑)。あの頃はNSPのコンサートにもよく行った。いまでもNSPのCDを聞くとあの頃の思い出が浮かび上がってくる。もう25年以上も前のことなのに‥』

《追伸》
この記事をアップした約2年後の2005年7月1日に、NSPのボーカルである天野茂さんが52歳で脳内出血のため亡くなりました。このニュースを聞いた時は本当に信じられませんでした。生きていれば今は58歳。まだまだ現役でコンサートを開いてくれていたことでしょう。今、NSPの歌が無性に聞きたくなりました‥
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2011
10.22

思い出の扉:「自転車(2005.3.3UP)」

Category: 思い出日記
自転車は多くの人が使っている物の一つと思われます。
今回は身近な自転車にまつわる思い出の記事をアップしたいと思います。

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*「自転車(2005.3.3UP)」
『私が始めて自転車に乗ろうと思って挑戦したのは確か小学校5年生の終り頃。田舎では中学校までが遠くて自転車でないと行けないので仕方なく練習することにしたのである。
その日は、朝から実家の近くにあるお寺の前の広場で兄貴に手伝ってもらいながら練習を開始。最初は荷台を持ったままで一緒に走ってくれた。何度も転びそうになりながらも少しずつ安定してきた。そして悲劇は前ぶれもなく起こった。今度も兄貴が荷台を持ってくれているとばかり思っていたら、その時は手を離して一緒に着いてきてくれていなかったのである。転びそうになって「アッ!」と思った時には、道路際の小さな川に頭から突っ込んでいた。その時の模様が頭から離れず、中学生になっても夢に出てきたほどだ。でも程無くして何とか乗れるようになり、中学校へは自転車で行けるまでになった。これも兄貴のお陰かf(^_^)

中学に入る前に一番最初に買ってもらった自転車は、3つのヘッドランプが着いたサイクリング車(^-^)v 当時3つ目は珍しくて買ってもらってうれしかった記憶がある。何とこの自転車は速度が速い時は3つともランプが点灯して、ゆっくりの時には真ん中のランプのみが点灯した。荷台側の後ろのランプは止まっている時でも1つのランプが点いていた。とっても気に入って学校へ行くのが楽しみになっていた(o^_^o)

高校の時も自転車通学だった。中学校までの距離が4kmだったが、高校までは6kmとちょっとだけ遠くなった。高校は駅からすぐのところにあったので、冬の間たまに1ヶ月くらい列車の定期を買って通ったことがある。四国といってもやっぱり冬は寒いのである。ある時、自宅から駅までの通学に使っていた自転車が盗まれた。駅の駐輪場にちゃんと鍵をかけていたのに‥。仕方が無いので兄貴のお古の自転車を借りることに。しかし1週間もしないうちにまたもやその自転車は忽然と消えた。もうショックだった。“どうして俺の自転車ばかり盗まれるのや~” その日から1ヵ月後、私の自転車を高校近くの駅付近で発見した。偶然、列車に乗っていて見つけたのである。すぐに、交番まで自転車を引いていって事情を説明し、自転車屋さんでパンクを直して自転車で帰ってきた。結局、兄貴の自転車は数ヵ月後バラバラになった状態で見つかった( ̄○ ̄;)!

 そういえば、高校の時は健康の為&気分転換の為、サイクリングに良く出かけていた。休みになると、一人で自転車をこいで観音寺方面や坂出方面(府中ダム)へ出かけた。夕日を受けながらのんびりと帰ってきたのが昨日のようである。あの頃は元気だった…

 今は子供達も大きくなって我が家では一人1台の割合で自転車がある。しかし、今住んでいるマンションでは、駐輪代として年間で1台目は300円なのだが2台目から何と3000円になるw(゜o゜)w 5台も止めると12300円/年にもなってしまう。仕方がないので、今は普段良く使う4台(9300円/年)だけ止めている(;;)

 最近、近くのデパートに行った時に、「パンクをしない自転車」が売られていた。タイヤの中に樹脂が入っているらしい。普通のよりも5000円くらい高かったけど案外良いかもしれない。我が家は自転車の台数が多いせいか、しょっちゅうパンクしているので(;^_^A

 ここ数年はあまり自転車に乗らなくなった。遠くに行く時は車で出かけ、近場は歩いて出かける。今年は思い切って季節が良くなったらサイクリングがてら遠出しようかなぁ(o^_^o)』

《追伸》
実は先日、うちの奥さんから電話があり、「長女も電動自転車を買った」らしい。これで我が家は電動自転車が3台あることになります。私専用の自転車は前から無いので、東京で自転車を乗る時には誰かの電動自転車を借りることになりそうです(^^)
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2011
10.15

思い出の扉:「たばこ(2003.5.10UP)」

Category: 思い出日記
最近、たばこ税の増税をどうするかのニュースが話題になっていますが、
このたばこの栽培に関してアップした記事を今回は載せます。

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*「たばこ(2003.5.10UP)」
『私のHPをご覧の皆様の中にも「タバコ」を吸われる方も多いと思う。
実は私が小さい頃は香川県の実家でタバコの葉を栽培?していたのである。
今は栽培するのに制限(ある年に土地面積が多いと作れなくなった)があって、もう実家では止めている。
ここでタバコの栽培に関しての思い出を書くことにする(私の家ではタバコの葉っぱの苗植から乾燥までをやっていた)。
まず、農協からタバコの苗(2cmくらいの大きさ)を購入する。
自宅の庭にタバコの苗を植えるハウスを作っており、6cm四方の枠の中に1本1本苗を植え大きくなるまで世話をする。
そして高さが4~5cmくらいに大きくなったら、田んぼへ植え直す。
田んぼには50cm幅で苗を植える土の山が何本も作っており、そこに穴を掘って1本づつ苗を植えていく。
そのあと、その土の山ごとにビニールハウスを作っていく。
この状態で何日か水をやりながら大きくなるまで育てる。
高さが1mくらいになると花をちぎって葉に栄養が行くようにする。
そして2mくらいになったら下の方の葉から親がもいでいく。
もいだタバコの葉っぱを家で待っていた子供たちが機械を使って編んでいく。
編むとは、3mくらいの長さのねじれた2本の縄の間に1本づつ葉っぱを入れていき締め付けて縄から葉っぱが抜けないようにすることをいう。
この時、葉っぱの大きさやもいだ位置(下なのか上なのか)によって予め分けてある。
このようにして編んだタバコの連を、乾燥場に干して何日もかけて乾燥させる。
乾燥場に吊るすのがまた大変で家族総出でやっていた。またびっしりと吊るす為、汗だくの仕事である(この後で、飲むソーダ水やスイカの味が今でも忘れられない)。
その後、数日間乾燥させた後タバコの連を乾燥場から出し、それぞれの連ごとに1つの束にする。
この束を重ねて置いていき、山になったところで重石を置いてぺっちゃんこにする。
そして数日経った頃に、農協からタバコの葉っぱの良し悪しを判断できる専門家が自宅まで来て、ランク別に選り分けていく、その結果によってその年の収入がきまる。
主に、下の方からもいできた大きな葉っぱはニコチンが少ない為に葉も柔らかく、高く売れる。
上の方からもいできた小さな葉っぱは乾燥するとコゲ茶色になりバラバラになりやすい。
これらはニコチンが多いため安い。また、タバコの葉っぱを編んだり、乾燥場にタバコの葉っぱの連を吊るすのは子供もやるのが当たり前で、夏場は休みはもちろん平日でも手伝っていた。
このように家のお手伝いをすることによって知らず知らずのうちに家族の絆が深まっていたのであろう。
懐かしい思い出である。』

《追伸》
ここ数年は煙草を吸う人の割合が減ってきているらしい。
そう言えば、私の会社の人の中にも止めた人が何人もいる。
健康の為には吸わない方がいいと個人的には思いますが‥
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2011
10.13

思い出の扉:「子供の頃の遊び(2003.9.20UP)」

Category: 思い出日記
今回は私が子供の頃にやった遊びを紹介した記事のアップです。
今の子供達は外で遊ぶことは少なくなっているのかもしれませんね。

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*「子供の頃の遊び(2003.9.20UP)」
『 最近、ふとしたことで子供の頃の遊びについて友人と語る機会があった。そういえば田舎(香川県)での子供時代は遊んでばかりいた気がする。そこで、私が子供の頃よくした遊びを、この際このコーナーに残しておきたいと思う。一応いくつか選んで下に書くが、要するに子供の頃は何でも遊びの道具になってしまうのである。

・ビー玉:これは全国的に流行っていたと思う。このビー玉にも種類があり、直径3mm~
     20mmのものや、中に模様があるものもあった。いろんな種類を集めるのが
     楽しかった。ここでは自分達がやっていたビー玉の遊びについて書く。
 (1)十字:地面に十字の線を掘り、その線上にビー玉を数個置く。そして、5m
       くらい離れたところから、順番に手持ちのビー玉を1個転がす。転がした
       ビー玉が線上のビー玉に当り、線上から外れると自分の物になる。
       この時、十字の真ん中のビー玉を取ると、その時点で残りのすべての
       ビー玉を取れる。
 (2)三角:これも十字と同じで、地面に三角形の枠を作りその中にビー玉を入れる。
       そして離れたところからビー玉を転がし、枠から出たビー玉を取れる。ただ
       投げた自分のビー玉が枠の中に入ってしまうとそのビー玉はそのままに。
 (3)地獄:地面に十字の先の位置に穴を掘る。そしてまず手前の穴に入れる。最初の頃
       は、ビー玉を地面につけたままで親指と人差し指でつまんで転がす。手前の
       穴に入ったら次は真ん中の穴に入れる。次は左の穴へ。また真ん中の穴へ。
       次は右の穴へ。また真ん中の穴へ。そして今度は一番遠くの穴に入れる。
       ここが天国といわれるところ。ここに入れて、真ん中の穴、そして手前の穴
      (ここは地獄)に入れると、なんと相手のビー玉にぶつける事ができる。
       ぶつけられたビー玉はぶつけた人のものに。また地獄に入ったあとは、
       ビー玉を地面につけている必要はなくなり、ビー玉を持って立った状態で
       ぶつけることもできる。

・パッチン:これは一般的にはメンコという。田舎でも昔は流行っていて、学校から帰ると
      友達のうちへよく行ったものだ。
      普通は四角い枠を地面に書いて、その中に数枚パッチンを置く。そして順番に
      手持ちのパッチンを使って、相手のパッチンを枠の外に出すか引っくり返す。
      そうなったらそのパッチンは自分のものになる。
      パッチンの種類も豊富で、四角いのから丸いもの、小さいものから葉書よりも
      大きいもの、絵柄も色んなものがあった。

・チャンバラ:家の近くにお寺があり、その塀の中に細長い植物が生えていた。名前は分か
       らない。その植物の芯はしっかりしていたので、根元から折り、皮を剥いで
       剣にして遊んだ。ただし、持つところの皮はそのままにして。そして友達と
       塀の上を走り回ったり、剣を振り回してよく遊んだものだ。

・ぐだま鉄砲:これは紙鉄砲と同じ要領で、20cmくらいの長さに竹の筒を切って、その
       中にちょうど入るくらいの大きさに削った割り箸を作る。
       この竹の両側の穴に“ぐだま”(中心に硬い塊がある小さな植物の実)を
       詰めて片側から割り箸を入れて押すと、「ポ~ン」と音がして反対側の
       “ぐだま”が飛んでいく。これで友達と撃ち合いをして遊ぶ。
       たまに“ぐだま”のかわりに“スギの実”を使うこともある。

・石蹴りの一つ:近所の広場に行って、手前と10m先に線を引く。そして「1」から
       「10」まで順番に試技し、早く「10」までいった人が勝ち。
        四角く割った瓦か四角い形の石を用いる。以下は二人対戦の場合。
     「1」:手前の線上から10m先の線上に立てている相手の石に自分の石を
         ぶつけて倒す。
     「2」:手前の線上から1歩で届くくらいのところに石を投げ、その石の上 
         に1歩で飛んで足が触れた後、手に持ってその位置から投げる。
     「3」:手前の線上から2歩で届くくらいのところに石を投げ、その石の上
         に片足飛び2歩で飛んで足が触れた後、手に持ってその位置から投
         げて相手の石を倒す。
     「4」:手前の線上から走って行き、交互飛び4歩目で股の間から石を投げ
         て相手の石を倒す。
     「5」:手前の線上から走って行き、交互飛び5歩目で股の間から石を投げ
         て相手の石を倒す。
     「6」:手前の線上から6歩で届くくらいのところに石を投げ、片足飛びで
         その石の上に6歩で足を触れ、その位置から足で蹴って当てる。
     「7」:手前の線上から7歩で届くくらいのところに石を投げ、片足飛びで
         その石の上に7歩目でその石を足で蹴って当てる。
     「8」:手のこぶしの上に石を乗せて、8歩目で相手の石にぶつけて倒す。
     「9」:両足の靴の間に石をはさんで、両足飛びで9歩目で相手の石に放り
         投げて倒す。
     「10」:手前から相手の石の近くに自分の石を投げる。そして10歩で歩いて
         その石を持ち、目をつぶって相手の石に当てて倒す。

・紙隠し:土に小さな枠を作る。そしてその枠の中に小さな紙を隠す。それを相手が
     目で見てその隠している場所を当てる。ただこれだけ。

・金コロ回し:将棋の駒の「金」を4枚用意する。そして最初は「歩」を将棋の盤の隅に置
       く。まずは4つの駒を手に持って、盤上で転がす。その時の残り方で自分の
       駒の進む数が決まる。例えば、駒が寝ているものは1マス、駒が1個横に立
       った場合には5マス、駒が1個縦に立った場合には10マス、そして駒が
       1個頭の方で立った場合は100マス移動させることができる。立った駒の
       数に応じて加算される。この時、駒が重なった場合や駒が盤上から1つでも
       出た場合には進むことはできない。このようにして隅から盤上の外周を回り
       1周してくると今度は「香」になり、次の1周では「桂」になり、‥‥‥
       最後は「王」で1周して自分のスタートした隅まで戻ると、今度は盤の中央
       に向かって駒を進ませ、早く中央で止まった方が勝ち。

・野球:小学校の頃にあこがれてやるのが野球。もちろん軟式。私も小学校でチームを
    作って練習をしていた。私のポジションは、センターかレフト。強肩だったのだ。
    ある時、7つ上の兄貴(高校生)と家の庭でキャッチボールをしたことがある。
    兄貴は中学の頃は野球部でピッチャーをやっていたが肩を壊し高校ではやっていな
    かった。とにかく凄い球を投げる。キャッチボールの時に球をとりそこなって顔面
    にぶつけたことがある。いまだにあの時の球が飛んできている光景を覚えている。

*缶けり、かくれんぼ、コマ回し、ドッジボール、ゴム飛び等まだまだ遊んだ記憶がある。
 大人になってほとんどやることがなくなったが、いつの日か子供達とやりたいなぁ。』

《追伸》
実は、上に書いた遊びをまたやりたいなって密かに思っています。もう私の子供達は20歳を過ぎたので無理ですが、孫が小学校くらいになったら一緒にやろうかなぁ(^^)
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2011
10.09

思い出の扉:「アクシデント(2005.2.19UP)」

Category: 思い出日記
今回は旅行にまつわるアクシデントを書いた記事をアップします。
何かと旅行へ行く回数が多いので、その旅先で色んな事がありました。
でも旅行は趣味のひとつなのでこれからも色んな所へ行くんでしょうね(^^)

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*「アクシデント(2005.2.19UP)」
『私は若い頃から旅行が大好きで日本各地を旅行している。北は北海道から南は九州・沖縄まで。ただし飛行機が嫌いな為に電車か車での移動が多い(;^_^A
今回、独身時代から結婚後、そして家族での旅行中において、予期せぬ出来事に遭遇したいくつかの思い出をここで紹介したいと思う。

*独身時代
・会社のスキー旅行の帰り道、乗っていたバスに車が突っ込む
⇒私の成人式の日に企画された会社のスキー旅行へ参加。初めてのスキーに苦労しながらもチョットだけ滑れるようになり満足。そのスキー旅行の帰り道、日光付近のカーブで乗っていたバスに雪道で曲がり損ねた対向車の車がぶつかる。けが人は出なかったがバスが故障。日光東照宮で代わりのバスに乗り換えた為、我々のバスだけ帰宅が深夜に(T.T)
・房総半島旅行中に先輩の車が故障
⇒卓球部の人たちと1泊2日の予定で房総半島を旅行途中、鋸山ロープウェイ付近で、前を走っていた先輩の車が突然ガソリンスタンドに立ち寄った。ガス欠かと思ったら、オイル漏れだった。すぐに修理して事なきを得た。
・同僚と新潟へ旅行中にスピード違反で捕まる(友人が‥)
⇒会社の同僚と共に車3台に分乗して新潟旅行を計画。みんな若かったのでウキウキ気分で出発。関越道を友人の車と並走していると何故か友人の車が突然スピードを上げ、見えなくなってしまった。少し行くとネズミ捕りをしている場所を通過。その先に友人の車を発見。スピード違反で捕まっていたf(^_^) その時は、みんなで違反金を払った気がする‥

*結婚後
・うちの奥さんが会社の伊豆旅行中に下り坂でコケル
⇒結婚してすぐに同僚との伊豆旅行があり、うちの奥さんも参加した。2日目の朝、伊豆高原駅に向かう坂道で、なんとうちの奥さんが転倒。膝を擦りむいたが大したことなし。今でも何故か段差でよくコケル(^_^;
・東北地方への夫婦旅行において、一つの寝台で二人が寝る
⇒5月連休中に奥入瀬川&十和田湖巡りに出発。今回は寝台列車で青森まで行くことにした。まずは上野駅で列車に乗り込み、その日に寝る自分の寝台のところまで行ったところ、何と先客がいたw(゜o゜)w よくよく調べると、その女の子は間違って京都から1日早く来たらしい。仕方がないので上の寝台で女の子に寝てもらい、下の寝台で二人で寝ることに‥ 

*子供ができてから
・九州旅行において、長女が熱を出して病院に‥
⇒長女がまだ幼い頃、北九州地方を旅行。福岡県を移動中に長女が発熱。予定を変更して病院に連れて行き、診察を受けて薬をもらう。その甲斐あって次の日には熱は下がった。もしかして疲れたのかも‥
・九州旅行において、長崎の稲左山にて頭部を打つ
⇒長崎の夜景を見ようと稲左山に登る。展望台の階段で何故か手すりに頭をぶつける。せっかくの綺麗な夜景の記憶が頭から消えた(;^_^A
・九州旅行で長崎の雲仙に泊まる
⇒その次の年に雲仙岳が噴火。何だか泊まったホテルの温泉が熱かったような気が‥
・四国一周の家族旅行で、高知の桂が浜で長男が波にさらわれそうに‥
⇒長男がまだ3歳くらいだった頃、家族で高知県の桂が浜で休憩中にアクシデントは起こった。長男を海岸近くに立たせて太平洋をバックに写真を撮ろうとしていると、周りでざわめきが起こった。どうしたのかと思ったら長男の後ろから大きな波が押し寄せていた。アッと言う間に長男を波が飲み込んだ。偶然、長男は座り込んだ為、波にさらわれず濡れただけですんだが危なかった。太平洋の波はたまに大きいのが来るので注意が必要。
・中国地方への家族旅行において、鳥取砂丘で息子がコケて顔中砂だらけに(-_-;)
⇒私と長女と長男で鳥取砂丘を横切って日本海を見るために移動。途中で長男が急に走り出した。と少ししてコケた。汗をかいていたので予想通り顔は砂だらけ。そして砂が目に入ってしまい長男は大泣き。もう引き返すこともできず、我慢させて海岸まで歩く。しかし、海の水で目を洗うのもどうかと思ったが、泣いたお陰で目の中の砂は出たらしく着いた頃には泣き止んでいた(^_^;
・昨年の夏、家族で北陸地方(新潟県、富山県、石川県など)を旅行
⇒それから数ヵ月後、新潟中越地震が発生。

この他にも、小さなアクシデントは数知れず。でも思い出として話し合えるものばかりなので良かったと思う。』

《追伸》
昔から旅行が大好きで毎年2~3回出かけています。明日からも岐阜の白川郷と能登半島と京都をうちの奥さんと旅行をしてくる予定です。アクシデントも無く楽しい旅行になるといいんですけどね(^^)。
と言うことで、明日からのブログのアップは3日間無しです(^^;

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